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治療例・患者様の声

これまでむさし野治療センターで治療を受けた患者様の声と治療例の一部をご紹介します。

当ページに掲載している患者様の声の詳細は、当院名誉院長 林 義貢の著書『脳は蘇る! ! 究極の三鍼法 “あきらめないで! "奇跡が続々起きている!』と、『脳梗塞絶望からの生還!「三鍼法」の威力』に掲載されています。

突発性難聴
 /  / 十年間、聞こえなかった耳が聞こえるようになった

中里 清美 様・70代・女性

今から約十年前のある日の夕方、私が食事の準備をしているときでした。とつぜん飛行場のサイレンのようなけたたましい音が耳の中に鳴り響き、思わずその場にうずくまりました。その直後から音が聞こえづらくなり、いったい自分の体に何が起こったのかわからず、とにかく大変だということで、訳のわからないまま近くの内科医院に駆け込みました。

ところが、その医院では普通の聴力検査を一通りやっただけで、「特に異常はありません。しばらく様子を見ましょう」と言われ、薬だけもらって帰されました。異常がないと言われたこともあり、ひとまず安心。医院でもらった薬のせいかどうかわからないのですが、少し良くなったような気がしたので、その後も内科に通ったり、近くの耳鼻科に行ったり、マッサージに行ったりしながら、回復を待っていました。ところが、数ヶ月経ってもまったく改善の兆しが見られないのです。

「これはおかしい。普通の難聴ではない」とようやく気がついて、大きな病院に駆け込んだ時には、すでに手遅れでした。即入院となり、そこで初めて突発性難聴であることを知らされたのです。突発性難聴の場合、発症してから一週間経つと治りが悪くなることも、そのとき初めて知りました。

それにしても、どうしてそんなことになったのか、原因についてはまったくわかりませんでした。医師もはっきりしたことは言わない。というより、医師にもわらからないので言えないのです。「初めから大きな病院に行くべきだった」と私は後悔しましたが、それもあとの祭り。以来、ずっと強度の難聴の状態に耐えながらの生活を余儀なくされてきました。

それから約十年後、知り合いを通じてむさし野治療センターのことを知り、三鍼法治療を二、三度受けたときから、聞こえなかった耳の感覚がかすかに戻ってきました。これには私も驚き、「そのうちに回復するかもしれない」と、嬉しい予感を覚えました。

発症以来、約十年間、あらゆるところを回ってきたけれども全く効果がなくて、諦めかけていた私の心に、希望の光が灯りました。そして、治療を繰り返し受けた今では、かなり細かい音まで聞き取れるようになっています。

脳梗塞
 /  / 一回の三鍼法で言語障害が改善し、顔の歪みもとれる

坂下 賢治 様・30代・男性

私は数年前に交通事故に遭い、道路に投げ出されて頭(右側)を強く打ちました。そのときに脳の血管を損傷したのでしょうか、診察してもらった医師に「脳梗塞」と言われました。

いきなり脳梗塞と言われても、当然私はピンときませんでした。しかし、言語障害や片麻痺など、脳梗塞特有の後遺症が出てきたため、現実を受け止めざるを得ませんでした。

ところが、問題はそれだけではありませんでした。道路に投げ出された時に頚椎もやられていたのです。ずっと痛みが取れないし、顔も明らかに歪んでいるので、「おかしいな、脳梗塞でこんな症状が出るわけがない」と、不思議に思い、念のために信州大学の大学病院でMRI、CTスキャン、X線等々の検査を受けることにしました。

検査と診断の結果、「骨はまったく異常なし。痛いのは気のせいでしょう」と言われ、半信半疑のまま大学病院を後にしました。しかし、医師には痛いのは気のせいだと言われたけれども、痛みはずっと続いていました。

それから約一年半。痛みに耐えながら、どこか良い治療院はないかと探し続け、むさし野治療センターのことを知りました。そして、たった一回の三鍼法治療で痛みもほぼ取れ、それまで発言出来なかった「らりるれろ」が言えるようになりました。そのため日常会話もかなりスムーズに出来るようになったのです。

それに、顔面の歪みもほぼ取れていました。顔面の歪みは、三鍼法治療に入る前に頚椎を正常に戻したことが良かったと聞きます。一年半以上も経っていて、これだけの結果が出たのですから、事故後、すぐに三鍼法の治療を受けていたら、もっと早く、もっと簡単に改善していたことでしょう。

脳溢血
 /  / 視床痛で苦しんだ日々がウソのように軽減

佐藤 盛道 様・60代・男性

私が脳溢血で倒れたのは、定年退職を目前に控えたある日のことでした。一命は取りとめたものの、片麻痺としびれが残り、ひどい視床痛に苦しめられました。視床痛の激しい痛さは「疼痛」などと言われていますが、そんな生易しいものではなく、熱した鉄板に油をギトギト塗って、その上でじわーっと焼かれるような痛みです。しかも、その痛みは24時間ぶっ通しだからたまりません。

次第に視覚も弱くなり、視野も狭くなっていきました。言語障害の後遺症もあり、言葉を話しているという意識はあったものの、ピンポン玉をくわえて話しているような感じで、発音も不明瞭。右手の麻痺としびれが特にひどく、まるで大根か何かがぶら下がっているような感じで、自分の手という感覚が全くありませんでした。

そんな状態でしたから、病院に入院中はベッドに縛り付けられていました。入退院を繰り返しながらも、治りたい一心で、脳外科に通ってみたり、鍼を試したり、いろんな薬やビタミン剤をネットで探してみたり、手当り次第に試してみましたが、どれも大した効果はありませんでした。

それでも一年半ぐらいたった頃から、麻痺していた手から、大木の根っこのところにちょっと芽が出てきたような感覚が戻ってきたのです。そういう芽を「ひこ生え」というそうですが、そんな感じでした。

かすかな希望が見えてきたのですが、半年経ってもそれ以上の進展は見られず、もしかしたら、このまま回復しないのではないかと、なかば諦めかけていました。ちょうどそんな時、職場の仲間に三鍼法を紹介されました。

初めて聞いたときは、「三鍼法ってなんだ。たった三本の鍼で大丈夫なのか」と思いました。というのも、それまでにも、一般の鍼治療を何回も試してきて、大した効果が見られなかったので、鍼治療そのものに疑問を感じていたからです。

しかし、打つ手もなく行き詰まっていたことから、脳溢血で倒れてから約三年の月日を経て、むさし野治療センターに出向きました。そして、初めて試した三鍼法には、かなり手応えを感じました。三年近く経っていたにも関わらず、それまで手放せなかった杖をつかなくても、歩けるようになったのですから。また、言語障害のためろれつが回らなかったものが、十分とはいえないまでも、かなり滑らかに喋れるようになり、驚きました。

三鍼法の治療は、初回は視床痛の痛さのほうが先立ち、鍼の痛みを全く感じませんでした。それが、二回、三回と続けて治療を受けているうちに、視床痛の痛さがやわらぐと同時、鍼の痛みを感じるようになりました。三回目のときに体が温かくなってきて、全身の感覚がいくぶん戻ってきたのです。麻痺した手もひこ生えのようだったのが、自分の手として認識できるようになりました。

もともと、溺れる者は藁をもつかむ心境で、「ダメもと」で訪れていましたから、早々に期待以上の効果を得ることが出来て驚きました。そして、今ではすっかり痛みも無くなり、元の生活に戻ることが出来ました。

脳梗塞
 /  / 一本十万円の注射も効果なく、三鍼法三回で運転できた

伊藤 悦雄 様・60代・男性

私は青果市場で300人ほどの仲介人を束ねていました。当時、還暦を迎えたばかりで、「さあ、これからだ!」と新たな意欲に燃えている時。突然の脳梗塞によって倒れてしまい、総合病院にかつぎこまれて治療を受けたのですが、言語障害と左片麻痺という大きな障害を残すことになりました。

「こんな体になって、これからどう生きればいいんだ」と、そんな暗い気持ちから抜けることのできない心に矢を突き刺すように、「もうこれ以上は治りません。とても無理です」と、通院していた病院の院長先生に宣言されてしまいました。

これからは自分で治す方法を探すしかない。そう考えていると、群馬県某所に、麻痺によく効く注射をしてくれる医者がいるという噂を耳にしました。藁をもつかみたい気持ちだったので、さっそくここを訪ねることに。しかし、病院までは片道7時間はかかる。こんな体では自分で運転は出来ない。妻に頼むしかないのですが、自分の体が思うように動いてくれないもどかしさに、病院までの道中、ついつい妻に当たり散らしてしまうこともありました。

病院の注射は一本十万円もする高価なもので、最初の半年間は月に一回診察を受けなければならず、それでも治したい一心で根気よく通い続けました。半年後からは年三回通いましたが、いっこうに良くなる気配がないのです。

そして三年目。再び脳梗塞を発症しました。このときは、視界が二メートル位しかなくなってしまい、身体的障害がさらに重くなったため、それまで信頼してくれていた仕事仲間達も、皆離れていってしまいました。病気でイライラして気分がすぐれない上に、仲間からも見放されてしまうなんて……。それからは、自分だけ置いていかれてしまったようで寂しい毎日を過ごしていました。

結局、その病院には更に三年間通うことになり、なにも好転の兆しの見えない自分の姿に絶望しかけていたある日。近所付き合いのあった藤井さんに出会い、「自分は鍼治療を受けているんだけど、一緒に行ってみないか」と誘われました。そして、紹介されたのが、むさし野治療センターでした。

藤井さんは、六、七年前の旅行中に一過性の脳梗塞に襲われ、症状はそれほど重いものではなかったそうなのですが、半年ほどブラブラしていたせいか、足が弱ってしまって、気分的にも落ち込む毎日を過ごしていたといいます。もともと明るい性格の藤井さんが暗く沈み込んでいるのを見かねた、吉川市の隣町に住む従妹がむさし野治療センターを教えてくれたそうです。そして、義兄が運転して、千葉県から毎週送ってくれたそうです。

三鍼法治療は、最初は週一回だったのですが、いまでは月に一回になり、病状もほとんど完全に、といっていいほどに回復しているそうです。体力的にも自身がつき、年に三、四回は海外旅行にも行けるようになり、なにもかも忘れてリフレッシュしてくると言う藤井さんは、「林先生には本当に感謝しているのです」と言います。そんな藤井さんに誘われた私は、早速妻に運転してもらって、むさし野治療センターを訪れました。

言葉が出ない私に、林先生は三鍼法の三本の鍼のほかに舌と顎の下にも鍼を刺しました。一回目のときはなにも感じなかったのですが、二回目の治療の後に、「ら・り・る・れ・ろ、といってみて」と林先生に言われました。「言ってみて」と言われても、もう六年も言葉を発せていないのです。躊躇している私に林先生は、「さあ、言ってみて」と再度促してきたので、意を決して言葉を出してみました。「ら・り・る・れ・ろ……」喜びの瞬間でした。

それからは驚くべき速さで回復していきました。三回目の治療が終わってから自信が出てきて、吉川までの二時間半、一人で車を運転して来られるようになりました。麻痺していた左手の握力も以前と変わらないほどです。喉も麻痺していたため食事も固いものは通らなかったのに、今ではなんでも食べられるようになり、楽しみも以前と変わらないくらいに戻ってきました。離れていった仲間とも、また昔のように付き合えるようになりました。むさし野治療センターを訪れる前には、こんな自分の姿は想像出来ませんでした。

脳梗塞
 /  / 左片麻痺と言語障害を乗り越えて

松浦 博 様・50代・男性

建設業を営んでいた私は酒、たばこを切らしたことがなく、そのため心臓が多少気になってはいましたが、それまでは病気と無縁でした。しかし、仕事を終えて若い社員と一杯やっている時でした。突然頭がグラグラときて、意識を失ってしまったのです。

すぐに救急車で運ばれたのですが、アルコール中毒症と誤診され、朝まで放って置かれてしまったのです。結局、脳梗塞ということがわかり、左片麻痺と言語障害の後遺症が残ってしまいました。

それから病院に入院することになったのですが、会社が気になって気になって仕方がありませんでした。病院ではあれもしてはいけない、これもしてはいけないと、なにもさせてもらえない状態に置かれてしまいました。このままベッドに寝かされたままでは、植物人間になってしまうのではないかと、イライラと不安が募る日々。

歩くためのリハビリを行っても、一向に歩けるようになる気配もない。いよいよどうしたものかと考えている時、むさし野治療センターと三鍼法の話を聞きました。「自分の症状にぴったりの治療だ」そうは思ったのですが、今までの病院での経験から、それほどの効果は期待していませんでした。

ところが、一回目の治療で、車椅子に掴まりながら50歩も歩けたのです。そして、すっかり嬉しくなって翌日また治療を受けると、今度は掴まらずに100歩も歩くことが出来ました。一ヶ月も入院していたので、すぐに疲れてしまうのですが、とにかく100歩を自分の力で歩けたことに感動していると、そこに居合わせた人がみな拍手してくれました。こんな形で祝福されるなんて思いもよらなかったので、喜びもひとしおでした。

現在は、夜寝る時に左足が少し痺れる程度まで回復しました。闘病中は自分の体が思うように動かないこともあって、家族にイライラをぶつけて迷惑をかけてしまっていましたが、今では精神的にも落ち着きを取り戻すことが出来ました。

自閉症
 /  / 言葉が出なかった息子が、今では積極的に意思表示をしています

大越 弘樹くん(仮名)・4歳・男児

私の息子は、二歳を過ぎた頃から、言葉の点で他の子どもと比べて差が出てきたように感じていました。幼稚園に入ってから、お友達のお母さんがむさし野治療センターで治療を受けていることから、「弘樹くんもどうかしら」と勧められたのです。

始めのうちは、鍼治療というものがまだ幼い息子にとってどんなに辛いものなのかと想像して、躊躇してしまっていたのですが、息子の将来がそれで明るい方向に向かうならばと、三鍼法治療に希望を託すことにしました。

そして実際に治療が始まり、泣き叫ぶ息子の姿に胸が締め付けられるような思いでしたが、週一回の治療で、一ヶ月を過ぎた頃から変化が見え始めました。今まで全く言葉を発する気配のなかった息子は、こちらが使った言葉をオウム返しではあるのですが、声を出すようになったのです。

五回目の治療を終えた後、初めて林先生に、「バ…バ…(バイバイ)」と言った時には、「あっ、この子は会話が出来るんだ」と、そのときは感動というよりも、まるで新しい発見をしたような驚きがありました。

それからは、「あ…がと…(ありがとう)」、「こ…にち…(こんちには)」と言葉の数も増えてきました。とにかく言葉を出そうとしている息子の姿に、救われた思いがしました。

実際に息子自身も、言葉で自分の意志を表現出来るようになったことで、表情が明るく、豊かになってきました。そして、遊びの中にも変化が出てきました。

息子は車のおもちゃが大好きで、たくさんのプラモデルカーを並べてよく遊んでいました。でも、そこには声がなく、子どもが遊んでいるのに、シーンとした空気が流れているだけ。ところが、声を出せるようになってからは、今まではただ並べるだけの静かな遊びだったのに、「ブーブー」と声を出し、車を走らせるという活発な遊びに変化しました。

治療を繰り返した今では、「いや!」とか、「ちょうだい!」といった強い意志表示も出来るようになり、ほっと胸を撫で下ろす思いです。

視力障害
 /  / 西洋医療で打つ手なし、交通事故で視力0.01が1.2に回復

大塚 亜希子 様(仮名)・十代・女性

四年前のある日、私が家族と外出中に、乗っていたタクシーが前の車に追突する事故に遭いました。私は運転席の後部座席にいて、突然の衝撃で体が前に飛ばされて、気を失っていたそうです。

すぐに救急病院に運ばれましたが、左目のあたりの額と頬骨が陥没するという重症を負い、大手術となりました。助手席にいた母はむち打ち症、その後ろにいた父はタクシーが炎上して背中に大火傷を負いました。私と父の間にいた兄も前に飛ばされたのですが、幸いなことに、唯一無傷で済みました。

手術を受けた私の顔は、外観的にはすっかり回復したように見えたのですが、多少の違いで目線が下がってしまうという後遺症が残りました。そして、退院して学校に通うようになると、視力がグンと下がっていることに気付きました。黒板の字が見えないのです。再び手術を受けた医大の附属病院に戻って検査をした時の診断書には、次のように記されていました。

『視力 右(0.01)左(0.01) 前眼部、中間透光体、眼底に異常を認めず、視野、視覚誘導電位においても、正常範囲。頭蓋内の異常も否定的であるため、心因性視覚障害が最も疑わしい』

それから通院生活が始まり、整形外科や脳神経外科などであらゆる治療を受けたのですが、回復の兆しはまったくありませんでした。

約三年間の通院で、目薬をさしたり、薬を飲んでもまったく効果がなく、ついに、「原因不明のため、もうこれ以上治す方法がない」と匙を投げられてしまいました。

諦めかけていたある日、知人からむさし野治療センターでの鍼治療を勧められて、「少しでも回復の可能性があるのなら」と、父は私をむさし野治療センターに連れていってくれました。

最初は週2回、三鍼法を受けました。鍼はとても痛いものでしたが、これで治るのならと我慢していると、ほんの数分で治療は終わりました。すると、終わった後に目の周りが温かくなり、少し楽になったように感じました。

それから、むさし野治療センターと平行して、引き続き通院していた附属病院で視力を測ったところ、今度は次のような診断書が出ました。

『視力 右(1.2)左(1.2) 本日の視力は良好で、今後も経過観察の予定である』

私の視力はもとに戻っていたのです。三年も通っていた病院での治療はいったいなんだったのだろう。林先生には、「痛かったけど、ありがとうございます」という気持ちでいっぱいです。

自律神経失調症(顔面麻痺)
 /  / 二十年間の苦しみから脱出、自分を取り戻す

柳沢 啓子 様・60代・女性

二十年前、私はとても忙しい毎日を送っていました。健康食品の販売と、子どもの小学校のPTA役員、それに幼稚園のPTA会長と重なっていて、睡眠は四時間。そのような状態が続いたある日、バイクに乗っていたのですが、ハンドルが握れない、PTA役員で書紀をやっていても、手がしびれて文字がまったく書けない状態になってしまったのです。

その日は友人と昼食をとった後、ちょっと気分が悪いなと思ったのですが、JR高田馬場駅のホームで急に意識が遠のいていく自分に気づいて、すぐに救急車を呼んでもらいました。救急車に乗るまでは覚えていたのに、その後気を失い、気がついたら夕方五時になっていました。

入院先の病院では綿密に検査をしてくれたのですが、血圧や血液検査などすべて異常なしで一時帰宅し、その日は食事もとらずに休みました。翌日再び発作に見舞われ、地元の総合病院に入院することになりました。診断の結果、更年期障害による自律神経失調症と診断されました。

この病気はどこの病院へいってもたいした治療が受けられず、結局十年間、いたずらに入退院を繰り返すことになりました。体中が硬直し、不眠症がひどく、それからくる言語障害、幻覚、手足のリウマチ症状、歩行困難など大変な苦しみの中で、「どうしてお医者さんにはこの苦しみがわからないの!」と叫びたい気持ちでした。

病院では原因不明とされ、まったく症状は好転することなく、もう他の治療法を探すしかないという苦しい状況の中で、むさし野治療センターのことを知りました。初めて訪れたときには、頭はパニックでまったく考える力もなく、両肩を支えられて一歩も足を前に出せない状態でした。

しかし、むさし野治療センターに通い出してから病状は薄皮を剥ぐように好転し、徐々に本来の自分を取り戻していることに気付きました。それからしばらくして、すっかり自律神経失調症による苦しみから解決されたと思っていたある日。テーブルで向き合っていた主人から突然、「顔が曲がっているよ」と言われました。そういえば、お茶が真っ直ぐに口の中に入ってくれません。その内に、私の顔はますます大きく歪んできました。

その日は風邪気味で、近所のお医者さんにかかっていたので症状を訴えると、「風邪を引き起こしているウイルスが原因ではないか」ということでした。その病院では十分な検査が出来ないということで、総合病院に行って検査を受けたところ、やはり風邪によるウイルスが原因という診断で、CT検査結果は脳に異常なしということでした。そして、悪くすると麻痺が残る可能性があると言われ、飲み薬を処方してくれました。

ところが、三日薬を飲んでも症状には全く変化がありませんでした。その日はPTA会長をしている幼稚園の入園式で挨拶をすることになっていたので、麻痺をしているほうの顔を隠して出かけました。

これはおかしいと、再びむさし野治療センターを訪れ、最初の日は三本の鍼を頭に、麻痺している側の耳の後ろ、目の周りに普通の鍼をしてもらいました。二日後に二回目を受け、目の周りがピクピクと動くのをはっきり感じました。「あ、これは完全に治る」と、そのとき確信しました。

翌週に三回目を受けました。その時に口が元に戻り、これで完全に治ったなと思ったのですが、用心のためにさらに二回受け、それ以来、顔面麻痺になることはありません。

たった三回の治療でもとの元気な自分に回復した三鍼法には驚いたのですが、この治療法を知らずに風邪薬を飲み続けていたら、ピカソの絵のようになっていた自分の顔はいったいどのようになっていただろうかと恐ろしくなります。

リウマチ
 /  / もう絶対に治らないという絶望感から、明るい毎日に

橋爪 清美 様・50代・女性

長年洋品店を経営していた私は、ひどい手足のリウマチに悩まされていました。仕事柄、立っていることが多く、また寸法詰めなど細かい作業を手早くやりこなさなければならないことから、その無理が祟ったのだろうと思っていました。足は一歩一歩踏ん張らなければ、歩くことも出来ません。手は関節がぼこぼこと盛り上がっていて動かすことも出来ないくらい痛く、しかも醜いのです。

お客商売をしているので痛い苦しみと同時に、人に不快感を与えたくないという気苦労が重なっていました。どこの病院に行っても良くならず、もう絶対に治ることはないだろうという絶望感と痛く苦しい日々を過ごしていたのですが、知人から勧められたむさし野治療センターに訪れてみるやいなや、林院長がいきなり、「脳への血流が相当滞っていますね」と仰るのです。

「血流が滞る? なんだ、原因はそれだったのか」と、原因がわかっただけで、なんだか今までの絶望感から急に開放されたようでした。私は早く治りたい一心で週に二回ずつ治療を受けましたが、一回、二回と治療がすすむに連れて、氷のように冷たく重かった足が苦にならなくなり、夏のウールの靴下とも、もうサヨナラすることが出来、リウマチの症状が日常生活に支障をきたすことがなくなりました。

RS3PE症候群
 /  / 全身が風船のように膨れ上がる奇病が、一回の治療でしぼんだ

萱守 恵美子 様・60代・女性

はじめに、RS3PE症候群というのは、全身が風船のように膨れて筋肉が痛く、専門医ですら治療法はもとより病名さえ知らなかった奇病と言われているものです。

私が最初に異変に気付いたのは数年前の秋。ブラジャーがきつく感じ、「太ったんだわ」と思っていました。そこで、もうひとつサイズの大きいものを買ってきたのですが、まもなくまたきつくなっていました。

それからだんだん全身の腫れがひどくなり、痛みも増してきました。足の裏はパンパンになり、中華鍋の底状態になってしまったので不安定で、何かに掴まらないと歩けません。手は一本一本の指が腫れ上がっているのでグローブのようになり、曲げることも出来ません。

和式のトイレなどしゃがみこんだら立ち上がれない、ストッキングを履くときも、立っていられないので座って履く、お米を研ぐときも関節が腫れ上がっているので研ぐことが出来ない、指が曲がらないので車の運転も出来ないといった具合で、日常生活の全てに支障をきたしてしまったのです。

はじめは市内の市民病院に行ったのですが、検査しても、『原因不明です』と片付けられてしまいましたが、これでは納得出来ない。「なにか病名はないのですか」と食い下がると、『膠原病かな?』と自信なさそうに答えるだけ。「検査したらわかりますか」となおも食い下がると、『専門病院に紹介状を書きましょう』と、この病院では見放されてしまいました。

紹介状をもらったとはいえ特別に病院を紹介してくれたわけではなく、原因がわからないまま、とにかく「膠原病」という病名だけを頼りに必死で専門病院を探しました。

そして、やっと探し当てた仙台の病院では、『日本名はないのですが、病状は膠原病やリウマチに近いものがあります』と、RS3PE症候群の名前を教えてくれました。この病気は日本では珍しく、最近アメリカで増えていると言うのです。

「治療法はあるのですか」と藁にもすがる思いで医師に尋ねると、『原因がわからないのに、治療法などあるわけないでしょう』と冷たく言い放たれてしまいました。そして『とりあえずリウマチの薬を出しておきましょう』と言って、ブレドニンというリウマチの薬を出してくれました。

それからいろいろな病院を訪ねて回ったのですが、私が病名を告げても医師は、『そんな病名は初めて聞く』と言うばかり。そしていくら筋肉だけが痛いのであって、骨や関節は痛くないのだと説明しても、『そんなはずはない』と言って聞き入れてくれません。

「もう助からないかもしれない」と思い、暗い気持ちのまま自分の持ち物の整理を始め、嫁いでいる娘に生命保険証書を預け、覚悟を決めていました。

ずっと洋裁店を切り盛りしてきた私は、そんな体になっても店に出ないとなおさら病気が頭から離れないので、つかまり立ちをしてまでも仕事を続けていました。一年ほどそんな状態で、50キロあった体重は46キロに減り、全身が痛くつらい毎日でした。

そんなある日、千葉県野田市に住む兄から『どうしてる?』と安否を気遣う電話がありました。心配はかけたくなかったのですが、「全身が腫れて痛い奇病にかかっている」と伝えると、兄は『難病奇病によく効く鍼の先生がいるからすぐ来るように』と言ってくれました。しかし、すでに病院で治療法はないと烙印を押されてしまったので、鍼などではとても無理だろうと、一ヶ月ほどそのままにしていました。

それからしばらくして、また兄から電話があり、『顔は腫れているのか?』と尋ねてきました。どうにも、兄が鍼の先生に私のことを話すと、『妹さんは顔が腫れていると思うよ』と言ってきたというのです。「見たこともない自分の顔の様子がどうしてわかるのだろう。その先生ならもしかしたら……」という思いが顔をかすめました。

「駄目で元々、とにかく吉川へ行こう」と発起し、周囲の反対を振り切るようにして上京しました。地方に嫁いだ私にとって、こんなふうに兄に会いに来たことなど、結婚以来一度もなかったことでした。

足裏は不安定で思うように歩けないため、むさし野治療センターへは、主人と兄に両脇を支えられるように入っていくと、林先生はいきなり、『あなたは随分苦労してきましたね。これからは家庭内のことでも決して我慢しないことですよ』と言って、右足と左足、そして頭に三本、鍼をしてくれました。

林先生に『痛いですか』と尋ねられ、「痛くありません」と答えると、右足にもう一本鍼が追加され、かすかに痛みを感じてきました。そこに更に刺激を加えられ、だんだん痛みを感じるようになってきました。

治療台から降りた私に対し、林先生は『歩いてみて』と仰るのですが、さっきまで中華鍋の底のようにグラグラして歩けないのを見ていたはずなのに……と、半信半疑。再び林先生に促された為、意を決して足を踏み出してみると、なんと普通に歩けてしまったのです。今度は『階段を歩いてきて』と促され、階段もしゃんしゃんと歩けてしまいました。

翌日、兄の家で目を覚ました私は、起き上がろうとテーブルについた手のひらが、ぴったりとついている感覚が伝わってきました。今までは空気をいっぱいに入れた風船のようで、ごろごろして手のひら全体がテーブルにつくことはなかったのです。『お前のその手、どうしたんだ』と、兄の素っ頓狂な声に自分の手を見ると、しぼんだ風船のようにシワシワになっていました。

八戸に帰ってから個人病院の先生に「鍼でよくなりました」と報告すると、『自分がいいと思うものをやったほうがいいね』と言ってくれたのですが、総合病院の先生にはあまりいい顔をされなかったことが思い出されます。リウマチの薬は徐々に減らし、今ではまったく飲まずに済ませることが出来るようになりました。

一時は死を覚悟していた私にとって、このように元気で働けるようになったことがなによりも嬉しくて、楽しくて、幸せです。言葉では言い尽くせないほどの感謝の気持ちを林先生に贈りたいと思っています。

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